椅子と人間の境目を行き来する実験。花形 槙『エルゴノミクス胚』という別の現実

椅子と人間の境目を行き来する実験。花形 槙『エルゴノミクス胚』という別の現実

花形 槙

2026年10月19日

椅子に座ることはあっても、自分が椅子になろうとしたことは、おそらくほとんどの人にないはずだ。

パフォーマンスやメディアアートの領域で活動するアーティスト花形槙さんは、テクノロジーによって身体が変わることへの関心から、「人間が技術を使う」のではなく、人間自身が技術に〈なる〉ことを模索してきました。その試みのひとつが、パフォーマンス作品『エルゴノミクス胚』です。

エルゴノミクスとは、人間の身体や動きに合わせて道具や環境を設計する「人間工学」のこと。では逆に、人間の側が道具の側へと転移してしまうとしたら?自身を「すごく普通の人間」と話す花形さんが、誰にでもある日常の違和感からこの発想にたどり着くまでと、その実験の過程を辿ります。

『エルゴノミクス胚』

人間自身が「椅子になる」ことを試みるパフォーマンス作品。演者はヘッドマウントディスプレイを装着し、自分の身体がリアルタイムで「椅子らしき姿」へ変換される映像を見ながら、ゆっくりと姿勢を変えていきます。

わずかな身体の動きによって、映像の中の身体は背もたれや肘掛けを思わせる形へと変化します。観客は、演者たちが人間とも椅子とも言い切れない状態を探る過程に立ち会います。

公演情報

舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」 花形 槙『エルゴノミクス胚』
2026年10月29日(木)〜11月1日(日)
東京芸術劇場 シアターイースト
上演時間:約140分(予定)
サイト情報

花形 槙

1995年東京都生まれ。パフォーマンス、メディアアート、現代美術の領域で活動。身体と世界をつなぐテクノロジーを通して、「私」や「人間」の境界を揺さぶる作品を制作。『Paralogue』では他者を自分の腕に“寄生”させ、『Uber Existence』では他者に身体を委ねる「存在代行サービス」を実践するなど、身体とテクノロジーの関係から現代の人間性を探っている。

uploaded image

身体が変わる感覚を追いかけて

花形さんは、大学院への進学を機に、情報・エンジニアリングの領域からアートへ移っていますね。どのような経緯があったのでしょうか?

僕はエンジニアリングをしていた頃から、ウェアラブルデバイスを使って、自分の感覚器を変容させることにずっと興味がありました。

このような工学的な研究では、有用性や社会とどう接続するのかが語られます。ただ、僕がウェアラブルデバイスを作っていたのは、自分の身体が変わってしまうこと自体が面白かったからです。その感覚自体を扱いたかったのですが、当時の環境では、それをストレートに共有しづらい部分がありました。

それを作品作りとして取り組むことで、自分が本当にやりたいことを直接表現できるのではないかと、多摩美術大学大学院へ進みました。

情報・エンジニアリングからアートへ移ることに、大きな方向転換という感覚はありましたか?

あまりありませんでした。自分の中では、やりたいことはずっと同じだったからです。分野を変えたというよりも、自分のやりたいことをもう少し受け入れてくれる場所へ移ったという感覚が強いです。

多摩美の久保田晃弘さんや谷口暁彦さんは、自分のやりたいことをかなり受け入れてくれました。アートの文脈だから進んだというよりも、それまで持っていた関心をそのまま表現できる場所に移った、という感じです。

身体が変わるということに興味を持つようになった背景には、どんなものがあったのでしょうか?

 SF系のアニメや映画をかなり見ていました。『ブレードランナー』『AKIRA』『ガタカ』『攻殻機動隊』など、テクノロジーによって自分の身体が変わってしまい、どうしようもなくなるような話が好きでした。

中学生の頃に、文化庁メディア芸術祭でCod.Actの『Pendulum Choir』を観ました。出演者が油圧ジャッキによって傾けられながらコーラスを歌う作品です。そのような、自分の意思では思い通りにできない身体の状態に惹かれていました。

振り返ると、明確なきっかけが一つあったというわけではなく、そうしたものに無意識のうちに救いを感じていたのかもしれません。

その関心が、自分自身の身体を使った制作へつながった転機はありましたか?

明確な出来事として大きかったのは、『Paralogue』という作品です。筋電刺激装置を使って、自分の腕に他者を宿らせるようなことを試みた作品なのですが、初めて実験した時、自分の中に別の存在がやってくるような瞬間がありました。

その時、ものすごくゾクゾクして、世界がスローになるような感覚があったんです。そこで、「今後10年くらいはこれをやるだろう」と直感で思いました。

それまで映画や作品の中で見ていた身体の変容を、自分自身で初めて体験したような感覚だったのでしょうか?

そうかもしれません。

「椅子になろうとする」発想の源泉

『エルゴノミクス胚』を、現代アートに馴染みのない人に説明するとしたら、どのような作品だと伝えますか?

僕はアーティストと名乗っていますが、実は「アート作品を作るぞ」という意識はあまりありません。自分の欲望だったり、この世界にうまく当てはまらない自分をどう処理するか、というところから制作が始まっています。

例えば、気づけばショート動画を延々と見続けていたり、アプリの指示に従って身体を動かしていたりします。最近では、AIとの対話が意思決定にまで入り込んでいる。僕たちは技術を使っているつもりでも、いつの間にか自分の身体や判断の方が、システムやアルゴリズムの一部になっているような感覚があります。そういう中で、「自分」や「人間」という領域がどんどん揺らいでいくリアリティがあります。

映画『ファイト・クラブ』をよく観ていました。資本主義社会の中で機能化され、どこか去勢されたような男たちが、地下闘技場で殴り合う話です。

そこで彼らが求めていたのは、勝つことではなく、殴られた瞬間に感じる恍惚や、「自分の身体がここにある」と気づく感覚だと思っています。社会の中で機能することに慣れた人たちが、身体への刺激を通して何かに目覚めていく場面が好きで、よく観ていました。

僕はずっと、自分が囚われる現実からどうやったら抜け出せるのかを考えています。そのようにしか振る舞えない身体、そのようにしか存在できない自分から、どうやったら外側へ行けるのか。いろいろな方法で、10年くらい同じことを考え続けています。

『エルゴノミクス胚』はその試みの一つです。

「椅子になる」というアイデアのきっかけはどんなことでしたか?

この作品では、リアルタイムで画像を生成するAIを使っています。カメラで捉えられた身体の動きにしたがって、椅子のイメージへと変換されたり、人間の身体に戻ったりしながら揺らいでいく映像が投影されます。

その技術に初めて触れた時、「ああ、これは自分の体がグニャグニャになるな」という感覚がありました。作品のアイデアを探していると、これまでに感じたことのない感覚や瞬間が突然現れて、「これはいける」と思うことがあります。この時もまさにそうで、そこから今回の作品へとつながっていきました。

僕には「技術を使う」のではなくて、「技術になる」という大きなコンセプトがあります。その技術との接続点として、エルゴノミクスという人間工学の考え方を使っています。

椅子は、人間の身体に合わせて設計される一方で、電車や職場、病院、学校、劇場など、さまざまな制度の中に身体を自然に組み込む道具でもあります。『エルゴノミクス胚』では、その関係を反転させて、人間が椅子に〈座る〉のではなく、椅子に〈なる〉ことを試みています。  

ただ、椅子そのものがすべてではありません。僕が考えているのは、身体と技術が互いに形を変えながら関係してきた、その境界についてです。椅子はその代表的なオブジェクトの一つで、今後は例えば石器やCPUのような、道具の歴史の両極にあるものをモチーフにする可能性もあると思っています。

答えのない「椅子になる」を、パフォーマーと共に探究する

「秋の隕石2026東京」の本番に向けた準備では、演者の方々とどのような練習を重ねているのでしょうか?

僕の作品にも練習的な部分はありますが、それは決まった動きや完成形に近づけていくための練習ではありません。パフォーマーたちと一緒に「椅子になる」という状況を何度も発生させ、その感覚を味わっています。実験が終わった後には、パフォーマーたちに「椅子になる感覚がどうだったか」を音声で記録してもらっています。

僕たちは、これを「実験」と呼んでいます。本番と実験にはもちろん大きな違いがありますが、実験を本番のための練習としてやっている感覚はあまりありません。椅子になる感覚が発生する時もあれば、発生しない時もあり、同じことをしていても毎回違うことが起きます。なので、毎回の実験そのものを一つの重要な探究として扱っています。

客観的にどう見えるかよりも、何が自分の中に発生したのか、という感覚の方を圧倒的に大切にしています。

2025年の公開実験では、こうした実践の過程を各パフォーマーが記録した「変異日記」が観客に配布されました。

「椅子になる」という試みを重ねる中で、それぞれの身体にどのような変化や発見が生まれたのか、舞台上だけでは見えない実験の過程をたどることができます。  

「変異日記」を見る

便宜上、僕が演出家、参加する3名がパフォーマーということになっていますが、僕にとっては、彼らは一緒にこの状況を探究する仲間です。お金を渡してオファーして、演者として雇うというより、「僕よりも別の方向へ、その感覚の回路を掘り下げてくれる人」という感覚です。

「椅子になる」という課題と装置を渡した時に、その人が何を受け取るのか、どのように変容するのか。その人の言葉や動きを見て、僕自身も毎回驚いています。だからこそ、本番だけでなく、そこに至るまでの実験そのものも重要です。

本番では、観客の方には「作品を観に来てもらう」というより、「椅子になる」という別の現実に立ち会ってもらいたいと思っています。自分たちが普段生きている世界とは違うシステムが、その場で実際に動いている。その状況に入ってもらうような感覚です。  

なので、むしろアートや演劇に詳しくない人にも来てもらいたいです。「これはアートだから」「これは演劇だから」と構えずに、そのまま起きていることに直面してほしい。アート作品を観る人は、普段とは違うリアリティに触れに来ているところもあると思っています。だとすれば、そういう状況を作ること自体が、僕にとっては作品なのだと思います。

section image 1
section image 2

椅子として成立する条件は、そこに「椅子」を見出すこと

制作の途中で、やりたかったものの、技術的・身体的・時間的な理由などから実現を見送ったアイデアはありますか?

まず前提として、人間がそのまま椅子になることはできません。身体そのものを加工して椅子に変えるとなると、心理的にも受け入れきれないですし、倫理的・医学的にも非現実的です。

ただ、それでも「椅子になる方法」はあると思っています。

最近、自分の中で重要になっているのが、「見出す」という考え方です。例えば、岩やガードレールに座ることがありますよね。その時、岩やガードレールそのものが最初から椅子として作られているわけではない。でも、座る人がそこに「椅子」を見出すことで、椅子として成立している。

だったら、人間に対して誰かが椅子を見出すことができれば、人間も椅子になれるのではないかと思っています。

逆に言えば、例えば人間とはまったく違う身体構造を持つ存在が、人間のために作られた椅子を見ても、それを椅子だとは思わないかもしれない。そもそも「座る」という行為自体が、その身体には存在しないかもしれません。

そう考えると、「椅子である」ということは、その物体だけで決まるのではなくて、それを見る側、座る側との関係によって生まれるものなのではないかと思っています。

1秒に何十回も変わる、身体と椅子の境界

制作を続ける中で、特に感情を動かされた瞬間はありましたか?

「なんだこれは」と思う瞬間は毎回あります。

今回の作品では、AI生成映像の中で、自分の身体が椅子になったり、人間に戻ったりする瞬間があります。うまく椅子になれた時は、その状態のまま自分の身体を探索していく感覚があります。

例えば、手をほんの1ミリ動かすだけで、背もたれだったものが肘掛けになったり、その肘掛けの先から西洋の王座のような装飾が伸びてきたりする。自分の身体が中世の椅子になったかと思えば、次の瞬間には最近のデザイナーズチェアのような形になることもあります。

自分自身はものすごくゆっくり動いているのに、1秒の間に何十回も違う椅子に生まれ変わっているような瞬間です。その時は、超スローと超高速が同じ場所に存在しているような感覚になります。その変化が、自分がずっと考えてきた「変容してしまう身体」のイメージとすごく近いです。

僕たちは普段、二足歩行をして、この形の身体で、この重力方向の中で生きています。でも、その身体の唯一性みたいなものから、一気に違う場所へ移動してしまうような感覚があります。

それが「なんだこれは」という感覚です。善か悪か、悲しいのか嬉しいのか、プラスなのかマイナスなのかも分からない。心地よさもあるし、不快さもあります。

でも、そういう感覚の中に放り出される瞬間が来ると、他のことが全部どうでもよくなるというか、「このために生きていたのかもしれない」と思うことがあります。

終わってから振り返れば、それは何よりも嬉しいことだったと分かります。でも、その最中にいる時は、自分でもそれが何なのか分かりません。

実際の舞台として成立させる難しさや、制作の中で困難だったことはありますか?

活動をする上で、自分が見つけた感覚を作品としてスケールさせたり、他の人に伝えられる形式にしていくためには、いろいろな「手続き」が必要になります。最近、それが大量に降ってくることが多いです。

先ほど話したような「すごい瞬間」は、人生で合計しても5秒くらいの感覚です。

ただ、その瞬間を迎えるためには、作品作り以外にさまざまなことが必要になります。作品を届けるために自分の考えていることを言葉にしたり、企画書を作ったり、人を集めたりする。そのためには、言葉にならないような感覚まで言語化して伝えなければならないこともあります。結局、手続きとはコミュニケーションなんだと思います。

そのような管理的な仕事をしている時期は、身体のモードが明らかに違います。身体に脳がついてくるくらいの状態が理想なのですが、管理が強くなると、逆に身体が頭にぶら下がっている付属品のようになっています。そこに頭や身体を使いすぎると、さっきお話したような「身体がグニャグニャになる瞬間」や面白い感覚を受け取りにくくなってしまいます。

アーティストとして活動していて感じるのは、ものすごく面白い感覚を持っている人でも、それを形式に落とし込んだり、自分について説明したり、人を集めたりすることが苦手だと、活動を続けるのが難しいというジレンマです。ときには、感覚そのものよりも、管理する力の方が重要なのではないかと思うほどです。

そのバランスは、今まさに難しさを感じているところです。

uploaded image

「アーティストだから」ではなく、同じ人間として

今のお話には、アーティストをアーティストたらしめるものが詰まっているように感じました。

過去に何回かインタビューを受けたことがあり、その際はいつも自分の特殊性を聞かれることが多いです。

作品の印象からそのように思われるのかもしれませんが、実はどちらかというと、すごく真面目なんです。学生時代も、反発心はありつつ、その場の価値観の中でどう自分を適応させるか、ということをやってきました。

そこから抜け出したいという気持ちも持っています。ただ、本来の僕はすごく真面目で、普通の人間なんです。 

「変態性」みたいなこともよく言われるのですが、変態じゃない人間の方が逆に珍しいのではないでしょうか。この世界に求められる価値観だけで構成されている人間なんていなくて、その辺を歩いている人にも、特殊な趣味や変な部分は多分あると思います。

アーティストを特殊な存在として見ることには、少し違和感があります。そもそも「この人はアーティストだ」と捉えた時点で、自分とは違う存在として距離が生まれてしまうと思うんです。

それより、YouTubeをずっとスクロールしてしまうような、自分にも覚えのある感覚を持った人間が、そこからこんな方向へ舵を切ることもあるんだ、と見てもらいたい。ほんの少し違えば、自分も同じ方向に進んでいたかもしれない。そう思えるくらい身近な感覚を持った人間がそこから『椅子になる』という方向へ舵を切っている。そのことに直面してほしいと思っています。

最後に、公演を観に来る方へメッセージがあればお願いします。

パフォーマンスを見に行くというよりは、何かに「直面しに行く」ような感じで来てもらうのがいいと思います。すごいアートを見に行って、これは面白いのか、面白くないのかと判断するよりも、既存のものとは全く別の倫理や現実に直面する。それに丸腰で乗り込むような感覚です。

この状況に飛び込むような感じで来てもらえたら、すごいものが見られるのではないでしょうか。

舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」
花形 槙『エルゴノミクス胚』

会期:2026年10月29日(木)〜11月1日(日)
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
開場:各回開演30分前
上演時間:約140分(予定)
上演言語:ノンバーバル/一部日本語・英語の可能性あり

チケット:
一般 4,500円
U29 2,500円
U18 1,000円
障害者割引 一般料金から10%引き
※全席自由・入場整理番号付・税込

事前ワークショップ「エルゴノミクス胚 ゼロ相」

本公演の前には、『エルゴノミクス胚』をより深く体験するための事前ワークショップも開催されます。

「椅子に座るとは何か」「椅子とは何か」を、自分自身の身体を使って疑う約2時間。ある構造物を〈椅子〉として見出すことや、身体と椅子の関係を実際に体験しながら、本公演を見るための新たな感覚の回路を探ります。

日時:2026年10月20日(火)19:00〜
会場:東京芸術劇場 リハーサルルームL
料金:無料・要予約
対象:10月29日〜11月1日『エルゴノミクス胚』チケット購入者
予約:https://ws-ee2026.peatix.com/