UMU Tokyo

umu(うむ)は、東京にゆかりのある国内外のクリエイターにインタビューし、そのリアルな声や生き方を日英バイリンガルで発信するインディペンデント・メディアです。

マレーシアのドキュメンタリーから日本映画への夢へ ― 映画監督・編集者のキャリアストーリー

Sid Shekar

2025年9月1日

マレーシアのドキュメンタリーから日本映画への夢へ ― 映画監督・編集者のキャリアストーリー

映画監督・エディターのSid Shekarは、マレーシアの映像業界で十年以上にわたり活動を続けてきました。テレビや広告から、社会の見えにくい部分を切り取るドキュメンタリーまで、多様な現場で物語を紡いできました。 黒澤明や宮崎駿に影響を受けた彼の物語には、「シンプルさの美」と「生きてきた時間の重み」の両方が映し出されています。徹夜続きのテレビ制作から、野生のゾウを撮影した感動の瞬間まで、経験の中で学んだのは、創作には忍耐やバランス、そして共に働く人への敬意が欠かせないということ。これから日本での挑戦を見据える彼の中には、日本映画への憧れとともに、十二年の現場で培った静かな強さと責任感が息づいています。

自己紹介

自己紹介をお願いします。

Sid Shekarです。30歳のマレーシア出身の映画監督で、現在もマレーシアに拠点を置いて活動しています。20代半ばで映画学校に通い、映画学の学位を取得しました。映画制作や広告、テレビ、メディア業界で12年間働いており、キャリアもだいぶ長くなってきました。 昨年の3月には日本の東京・京都・大阪を訪れました。いくつか理由があったのですが、その中の一つは現地のアート文化を探求したいという思いでした。日本の文化はとても豊かで、黒澤明監督の映画を観て育った私にとっても大変魅力的です。個人的に特に好きな作品は『椿三十郎』です。この作品は暴力的というよりはアクションコメディ的な要素が強く、とても面白い映画で、子どもの頃から大好きでした。

きっかけ

大学に進学される前から、趣味で映画制作をされていたのですか?

はい、撮っていました。実は私はクリエイティブな家庭で育ったんです。父は写真家で、母国ではかなり有名な存在です。 子どもの頃からその環境で育ち、フィルム写真からデジタル写真への移り変わりも見てきました。父がずっと仕事をしている姿を間近で見て育ったんです。母はもともとシェフで、その後フードスタイリストとして父と一緒に約20年間活動していました。二人で多くのプロジェクトを手がけていましたね。 そんな家庭で育ったので、父と同じ道を選んだわけではないですが、自然と映像の世界に進むことになりました。写真家ではなく映画監督になったんです。映画作りには、一瞬を切り取る写真とは違う、「時間を通して物語を描く美しさ」があると感じています。 父の信念は、多くの写真家と同じように「一枚の写真で物語を語る」というものです。でも映画監督は「25枚で物語を語る」んです。なぜ25かというと、映画では1秒間に25コマのフレームが使われているからです。

つまり、1秒間で物語を語るんですね。

その通りです。

卒業後はいくつかの会社で働いたんですよね?

はい。実は大学に入る前、18歳の頃からフリーランスとして働き始めていました。大学には22歳で入学し、25歳で卒業しましたが、その間もずっとフリーランスで仕事をしていました。私の専門は編集です。編集者としてもう12年になります。ほとんどの場合、撮影現場に行く必要もなく、ポストプロダクションの作業を担当しています。

子どもの頃は、将来写真家になると想像したことはありましたか?

いえ、まったくそんなことは考えていませんでした。子どもの頃の夢は古生物学者になることで、『ジュラシック・パーク』を観て、恐竜の発掘をする仕事に憧れていました。 その後は俳優になりたいと思った時期もありました。でも次第に、自分はカメラの前に立つよりも、カメラの後ろに立つ方に魅力を感じていると気づきました。 自分を語り手としてどう捉えているかというと、「記憶の守り人」だと思っています。人が忘れてしまった記憶はどこへ行くのでしょう?それは物語になるんです。物語はすべての記憶が生き続ける場所なんです。 だから私にとって、自分が書いた多くの脚本や撮影した映画は本質的には記憶の断片です。人々の記憶、自分自身の一部、小さなかけらたちが物語として不朽のものになるのです。 私はずっと、人間の行動の「むき出しの部分」、もっとも飾り気のない瞬間に魅力を感じてきました。私の多くの短編映画の脚本は、そこから生まれています。こうした感情は言語を超えて伝わる普遍的なものです。 例えば、誰かを本当に好きになったのに、そのときの自分の人生の状況では一緒にいられない。自分はその人にふさわしくないと感じてしまう。世界中の誰もが、そんな瞬間を経験したことがあると思います。それは普遍的な感情です。 私の作品の多くは、自分探し、孤独、失われた恋、存在への問いといったテーマを中心に描いています。こうした感情は、アメリカ人でも日本人でもマレーシア人でも、誰もが経験するものです。人生のどこかで、私たちは皆、自分の存在や世界の中での居場所を問いかけるのです。

つまり、あなたが映像で表現して世界に届けたいと思っている感情は、私たち誰もが感じているものでもあるということですね。

その通りです。

つくる楽しさと難しさ

ありがとうございます。こうしたテーマで映画を作るときの気持ちは、どんなものなんでしょうか?先ほど「作品には葛藤や深い感情が多い」とおっしゃっていましたよね。でも私の質問リストには「これまでのクリエイティブな旅で一番幸せだった瞬間は?」という項目もあって、それがどんな答えになるのか、気になったんです。

ええ、その2つには関連があるんです。作品は「幸せか悲しいか」という単純な二択の問題ではなく、もっと複雑なものです。よりシリアスな作品を手掛けるのは、人々が見過ごしがちな現実を浮かび上がらせるため。ただ、その解釈はあくまでも観客に委ねています。私のメッセージをどう受け取るかは、観る人それぞれの自由なんです。 それこそがドキュメンタリーの本質だと思います。自分の思想を押し付けるものではなく、人々に知識や気づきを与えるものです。 でも「一番幸せな撮影は?」と聞かれたら、実は動物の撮影ですね。何年も前、テレビの仕事をしていた頃、マレーシアの野生のゾウを撮影する機会がありました。それは本当に美しい体験でした。子ゾウをお風呂に入れてあげたこともあり、嬉しすぎて泣いてしまいました。 でもその後、レンジャーたちの話を聞いて、さらに心を打たれました。そこはゾウを保護してケアし、野生に戻すリハビリセンターだったんです。そこでランサという名前の子ゾウに出会いました。彼の物語は胸が張り裂けそうなものでした。密猟者によって母親が殺され、発見された時には母親の亡骸のそばに立ち尽くしていたそうです。彼はまだ1歳でした。 彼はセンターに運ばれましたが、トラウマで食べ物を受け付けず、苦しんでいました。そんな中、一人の飼育員と強い絆を築き、その人は家族のような存在になりました。でも、私たちが訪れる一週間前にその飼育員が心臓発作を起こし、寝たきりになってしまったんです。その瞬間からランサは再び食べなくなり、ひどく落ち込んでしまったそうです。 その話を聞いて、動物も人間と同じように深い感情を持っていることを痛感しました。人間は唯一、残酷になることを選べる生き物であり、同時に優しくなることも選べる唯一の生き物でもあるんです。 そして正直なところ、時にはカメラを回すことすらやめます。自分の目で見たいからです。だから私は自分の食事を写真に撮ったり、楽しい瞬間をインスタグラムのストーリーに頻繁に上げたりはしません。その瞬間を一緒にいる人たちと楽しむ方が大事だと思っているんです。

カメラの裏側で仕事をしている方からそういう話を聞くのはとても興味深いですね。私の偏見かもしれませんが、テレビ番組って作り物っぽく感じることが多いです。

ああ、リアリティー番組なんて全部作り物ですよ。これは私がテレビ業界で働いていたから言えることです。旅番組やモデル番組すべて台本がありました。本当に「リアル」なものなんてほとんどないんです。ドキュメンタリーでさえ台本があります。ただ、その作り方は少し違いますけどね。

そのようなことに疲れてしまうことはありませんか?

もちろんあります。すごく疲れますよ。自分が心からやりたい作品づくりと、クライアントのためにやる仕事との違いは大きいです。すべてのクライアント案件を楽しめるわけではないですが、生きていくためには必要です。好きな仕事もあれば、そうでない仕事もあります。 でも一番大切なのは、どんな仕事でも常に全力を尽くすことです。なぜなら、仕事の質はそのまま自分自身の評価につながるからです。もし手を抜いた仕事をすれば、誰ももう一度あなたを雇おうとは思わないでしょう。だからクライアントの仕事でもベストを尽くします。そして、自分のプロジェクトではさらに一歩先まで力を注ぎます。それらは自分にとってとても個人的で、大切な表現だからです。

クライアントワークや会社での仕事の中で、一番良かったプロジェクトは何ですか?

一番楽しかったのは、Rocket Fuel Entertainment (ロケットフューエル・エンターテインメント) という会社での仕事ですね。そこでライフスタイル番組を制作したのですが、その中に「Enam Belas Baris」というラップ番組がありました。マレー語で「16小節」という意味です。ラッパーたちが出演してフリースタイルを披露する番組で、その制作は本当に楽しかったですね。 印象的だったもうひとつのプロジェクトは、非常に過酷なものでした。朝10時から翌朝6時まで働くという生活を続け、1日4時間しか眠れなかったんです。当時のテレビ業界は非常に厳しく、それは10年ほど前の話です。 また、ソーシャルメディアや広告業界でも働いたことがありますが、ソーシャルメディアは最悪でした。大嫌いでしたね。辞めた理由は「クリエイティブの方向性の違い」です。会社は質より量を優先し、上司がやる気を失うとチーム全体もやる気をなくしました。その影響は作品にもはっきり出ていました。自分のスキルが尊重されていないと感じましたし、尊重というのはお互いの信頼関係があってこそ成り立つものです。

では、キャリアの中で一番つらかった瞬間は?もう続けられないと思ったことはありますか?

それはいい質問ですね。おそらく編集者なら誰もが感じたことがあると思います。編集者は作品の要です。最後の段階で全てをつなぎ合わせる役割を担っています。でも、その割に一番軽んじられることが多いんです。監督の次に高い報酬を得ている役職であるにもかかわらず、待遇はあまり良くないのです。 最悪なのは、クライアントが終わりのない修正を出してきて、それを一晩で仕上げろと言ってくるときです。「寝ないのが当たり前」と思われているんです。午前3時に電話がかかってきて、「2時間以内に直してくれ」なんて言われたこともあります。やらざるを得ないときもあります。でも、多くの場合それは本当の締め切りの問題ではなく、クライアント自身の保身であって、すでに必死で働いている人たちへの配慮がないんです。それは不公平ですよね。 私には常に守っているルールがあります。「早い・安い・良い」のうち、選べるのは二つだけということです。早くて安ければ質は落ちる。早くて良ければ安くはならない。それが現実です。 後輩の編集者たちにはこう言っていました。「無理はするな。クライアントが夜中に依頼を送ってきても、対応は明日でいい。まず休んで頭をリフレッシュさせろ。そうしないと作品の質が下がる。」

今はご自身のチームやスタジオをお持ちですか?

今はもう持っていません。以前は大きなプロジェクトのためにチームを組み、必要に応じていろいろな人に外注していました。でも、一番長く一緒にやってきたのは親友です。彼とはもう12年近く一緒に仕事をしています。大学時代に出会って以来、ずっといろんなプロジェクトで協力し合ってきました。

友人と一緒に仕事をする方が、一人でやるよりも良いですか?

それは状況次第ですね。でも、彼と一緒に仕事をするのはいつも楽しいです。私たちは自然とお互いを補い合っています。私はとても厳格で、すべてを期限内に終わらせることにこだわります。一方で彼はもっとおおらかで、「大丈夫、後で仕上げればいいよ」とチームを安心させるタイプ。そのバランスがチーム全体に良い雰囲気を生むんです。まるで親の役割分担みたいな感じですね。一人は厳しく、一人は優しく。そのおかげで制作過程そのものが楽しくなります。

価値観の定義

あなたにとって、アートやクリエイティブはどんな存在なんですか?

私が大好きな映画や影響を受けた監督の中で、一番大きな存在はウォン・カーウァイ監督です。香港の映画監督で、私自身が中国系とインド系のハーフなので、彼の作品にとても共感できます。 私はどちらの文化においても少し異端者のような存在です。どちらにも完全には属していない感覚があります。インドの血筋をたどればインドへ、中国の血筋をたどれば香港や広州へと行き着きます。そのため、私の家族の歴史は非常に多彩で豊かなものなのです。 この12年間で、私は3本のドキュメンタリーを制作しました。そのうち2本は主に社会学的・社会問題に焦点を当てた作品です。特に、ホームレスの方々の生活を記録しました。1~2か月ほど撮影やインタビューを重ね、彼らの話をじっくり聞きました。 正直に言えば、それは胸が締め付けられるような体験でした。長い時間を共に過ごすことで、彼らを「道端にいるただの人、きっと正気じゃないか薬物中毒なんだろう」といった偏見の目で見ることはなくなります。代わりに、自分とどこかで重なる存在として見られるようになるのです。なぜなら、人生のどの瞬間でも、私たち自身が同じ立場に立つ可能性があるのですから。実際、私も一時期はその道に足を踏み入れかけていました。

そのテーマはご自身で選ばれたんですか?それとも与えられたものですか?

自分で選びました。そのうちの一本は最終的に、香港とバルセロナの映画祭でノミネートされました。もう一本は、マレーシア国内で賞を受賞したんです。 これらのプロジェクトは、私にとってとても大切な作品でした。なぜなら、普段あまり語られないことや、忘れ去られたり隠されたりしていることを取り上げることができたからです。多くの人には、それを声に出す手段がありません。でも、それこそがアートの本質です。アートは、日常では言葉にしづらい思いや真実を形にできる手段なのです。

日本や東京への想い

昨年日本を訪れた際、「アート文化が豊かだ」と感じられたそうですが、具体的にはどのような部分でそう思われたのですか?

映画学校時代、私は宮崎駿監督について、特にスタジオジブリ作品における彼の芸術観をテーマに論文を書いたことがあります。その論文を書くことで、彼の発想やアイデアの背景についてより深い理解を得ることができました。彼のストーリーづくりの手法はとても独特なんです。 彼の作品は多くの面で戦後日本を反映していて、日本の豊かな歴史を感じさせます。黒澤明監督もまた、その歴史を強く作品に反映していました。そして多くの人は知らないのですが、黒澤監督はアメリカの西部劇から大きな影響を受けており、そこに自分独自の解釈や語り口を加えて、彼は当時人気を博した時代劇映画を次々と生み出しました。映画監督としての彼を非常に尊敬し、今でも憧れています。 また、日本のアート文化は、画家や写真家、映像作家、映画監督といったアーティストたちのコミュニティへの支援や励ましの面でもとても豊かです。そのプロセスそのものがとても美しいと思いますし、特に日本映画や芸術においてそれがよく表れていると感じました。 私にとっての美しさは「シンプルさ」にあります。それこそが日本の最も美しい点だと思います。そしてその感覚は多くの文化的な側面にも反映されていると感じます。

実際に日本を訪れたときにも、そのことを感じましたか?

ええ、もちろんです。それは料理の作り方ひとつにもはっきりと感じられました。シンプルさの中にこそ美しさがあるんです。東南アジア出身の私は、複雑な味付けや重ねられた香り豊かな料理に慣れ親しんで育ちました。私たちの料理は、混沌の中に美しさを見出す世界です。一方で、日本料理はその対極にあり、「洗練されたシンプルさ」に美が宿っていると感じます。 多くの人は、混沌や無秩序を「秩序」や「シンプルさ」の対極にあるものだと思いがちです。でも、私にとってはそうではありません。両方は一つの存在の中で共存しているのです。どちらにも美しさがあり、その感覚は日本の芸術や料理にも息づいていると感じます。

現在、日本語を勉強されていると伺いましたが、日本への移住もお考えですか?

はい。来年中に日本へ移住することを目指しています。そのために、今年の11月にも再び日本を訪れて、私を呼んでくれるかもしれない方々とビジネスミーティングを行う予定です。日本では信頼関係やコネクションがとても重要で、ただ仕事に応募するだけではダメなんです。映画業界はマレーシアと同じように小さなコミュニティで、信頼をベースにしています。だからこそ、人間関係を築くことが何より大切なんです。

なるほど。一番好きな食べ物は何でしたか?

一番好きな食べ物ですか?トンカツです!「トンカツが好きです(日本語で言う)」。シンプルな豚肉の揚げ物なのに、本当に驚くほど美味しい料理ですよね。 でも、日本に行って5日目くらいには、東南アジア出身ならではの「唐辛子欲」が出てきてしまいました(笑)。秋葉原で辛いラーメンを出すお店を見つけて食べたら、やっと自分の欲求が満たされて「これだ!」って気持ちになりましたね。

これからの道のり

夢のクライアントや、夢のプロジェクトはありますか?

正直言うと、夢のクライアントは「修正は一切なし、完璧です」と言ってくれる人ですね。でも、そんなクライアントは存在しません(笑)。 それ以外にも、日本の映画業界で働きたいという夢があります。マレーシアではもう学び尽くしたように感じていて、新しい視点が欲しいんです。 ずっと日本映画には憧れていましたし、以前マレーシアを訪れた日本の映画監督やスタッフとも出会う機会がありました。『A Mother’s Touch』のプロデューサーや脚本家とも知り合い、今でも交流があります。彼らのストーリーテリングのスタイルは本当に美しいと感じていて、ぜひ学びたいです。

日本に移住するのは大きな決断ですね。不安ですか?それとも楽しみですか?

その全てですね。恐れも、期待も、そして楽しみもあります。何より心配なのは、母と祖母を残していくことです。二人とも高齢で、これまで私がずっと支えてきました。それでも母は「自分の幸せを犠牲にしないで」と言い、常に前進するよう背中を押してくれるんです。 私は母を誰よりも尊敬しています。両親が離婚した時、母は私と妹を一人で育てる責任を背負いました。自分の幸せを犠牲にしてでも、私たちに幸せを与えてくれたんです。だから、できるだけ母を旅行に連れて行くようにしています。去年は春に日本に連れて行きました。母は桜を見たがっていたのですが、少し早すぎて上野の桜はまだ咲いていませんでした。それを一緒に笑い飛ばしました。今年もまた母を連れて行く予定です。

素敵ですね。お話ししてくださってありがとうございます。

心の奥底では、誰もが自分の両親を想像以上に愛していると思います。最高の贈り物というのは、豪華なものではありません。食事に連れて行くこと、公園を散歩すること、ただ一緒に時間を過ごすこと…そうした小さなことです。過去に大切な人たちを失った経験をしたことで、私たちに残された時間がどれほど少ないかを実感しました。だからこそ、私は大切な人たちとできる限り時間を過ごすようにしています。 今執筆中の短編映画があります。それを日本で撮影したいんです。自分が愛した特別な誰かを失った経験にまつわる、個人的なストーリーの作品です。彼女は私に多くの勇気を与えてくれました。彼女は日本人とのハーフで、声を発することができなかったのですが、それでも言葉を超えて、いつもたくさんの思いを伝えてくれました。それがとても美しかったです。彼女を守ることはできませんでしたが、彼女が私に日本を目指す原動力を与えてくれたのです。

お悔やみ申し上げます。

大丈夫です。誰かに完全に理解してもらおうとは思っていません。ただ求めているのは、同情ではなく共感です。 同情は憐れみで、共感は「私の気持ちを感じてみよう」と思ってくれること。私たちが本当に理解できるのは、自分自身のことだけですから。

届けたいメッセージ

そろそろお時間ですが、最後に私の一番好きな質問をさせてください。すべてが始まる前の若い自分に何か言えるとしたら、何を伝えますか?

「そんなに自我を張らなくていい」と言いたいです。謙虚であること。そして忍耐を持つことを忘れないでほしいです。 友人が「苦しみ」をこう表現してくれたことがあります。箱の中にボタンがひとつあり、その中でボールが跳ね回っているところを想像してみてください。最初のうちはボールが頻繁にボタンにぶつかり、そのたびに痛みを感じます。しかし時間が経つと、箱は少しずつ大きくなっていきます。ボールは変わらず跳ねているけれど、ボタンに当たる回数は減り、痛みは完全には消えなくても少しずつ和らいでいくのです。 忍耐こそが必要であり、その痛みを受け止めることこそが前進の唯一の手段です、そして何より、自分を信じることです。

とても印象的な表現ですね。最後に、世界に向けて何か伝えたいことはありますか?

アーティストであるなら、覚えておいてください。痛みはアートであり、アートは痛みです。今誰にも気づかれていないからといって、未来もそうだとは限りません。

Follow and connect with Sid Shekar below...

インタビュー出演者を募集しています!

東京にゆかりのある国内外のクリエイターの方 — グラフィックデザイナー、イラストレーター、フォトグラファー、映像作家、ミュージシャン、ファッションデザイナーなど、ジャンルを問わず幅広く募集しています。

Apply