UMU Tokyo

umu(うむ)は、東京にゆかりのある国内外のクリエイターにインタビューし、そのリアルな声や生き方を日英バイリンガルで発信するインディペンデント・メディアです。

未来ではなく、今を信じて「つくる側」に飛び込む

Fumiya Kimiwada

2025年12月19日

未来ではなく、今を信じて「つくる側」に飛び込む

編集者としてBtoBの現場を歩み、30歳の節目に株式会社baluboを設立したFumiya。クリエイター向けAIポートフォリオサービスの開発と、企業のコンテンツ制作支援を行います。 地方育ちのサッカー少年が編集の世界へ入り、諦めそうになりながらも「観る側」から「つくる側」へ踏み出すまでの軌跡とは。「編集とは、埋もれた才能や価値を発掘・翻訳し、必要な人へ届ける“橋渡し”の仕事。」そう語るその編集的視点や思考は、彼の事業づくりにも息づいています。

地方育ちのサッカー少年が、編集と起業にたどり着くまで。

――自己紹介をお願いします。

Fumiyaです。今年の8月に株式会社baluboを起業しました。BtoBクリエイター向けのポートフォリオマッチングサービスの開発と、編集者としてのBtoB企業やスタートアップのコンテンツ制作支援という2軸で活動しています。 もともとは、茨城の鹿嶋市…「遊ぶところがカラオケとジャスコしかない」ような、ほどよい(?)田舎で生まれ育ちました。小3から本格的にサッカーを始めて、大学までずっと部活で続けていましたね。 就活では、「話すより『書く』方が得意かも」&「好奇心を満たせそう」という理由で、新聞社や出版社を中心に受けました。ファッションも好きだったので、『メンズノンノ』や『ポパイ』の編集者に憧れていました。なんとなく華やかな世界への憧れもあってマスメディア業界を受けましたが、軒並み全滅(笑)。結局、なぜか人材会社に入社しました。 そのあとは、人材会社で1年半ほど派遣営業を経験した後、社内異動の公募にエントリーして編集部に異動しました。 そこで1年半ほど派遣営業を経験した後、社内公募にエントリーして編集部へ異動。編集者として技術者向けメディア『エンジニアtype』で1年ほど働いた後、『NewsPicks』に転職しました。そこではスポンサードコンテンツの編集者として、主に製造業やソフトウェア企業などBtoB業界を担当してきました。 もともと独立志向が強かったこともあり、自分でも「つくる側」になりたいという想いが募って、2024年にプログラミングを学んで起業の道へ。2025年8月に株式会社baluboを設立し、現在はクリエイター向けのAIポートフォリオサービス『balubo』の開発・運営と、これまでの経験を活かしたコンテンツ制作の2軸で事業を展開しています。

居心地の良さに覚えた違和感

――Fumiyaさんが編集者を始めたきっかけ、独立したきっかけはなんですか?

編集者になったのは、社内公募がきっかけです。新卒で入った会社では人材営業を担当していて、数字目標を達成するやりがいは感じつつも、心のどこかで「この達成の先に何があるんだろう」と考える自分がいました。 もともと就活で出版社や新聞社を受けていたくらいなので、言葉を扱う編集の仕事には興味があったんです。当時は、営業としてまずは「経験」を積んで、ゆくゆくはクリエイティブ系の仕事に…とぼんやり考えていました。 そんな時に、オウンドメディア『エンジニアtype』の編集者募集を見つけて。「まあ、難しいだろうな」と思いつつ応募してみたのがきっかけです。 独立のきっかけは、30歳という節目を前に「今後の人生、どうしよう?」と考えたことです。当時の職場はめちゃくちゃ働きやすくて、優秀な同僚に囲まれた贅沢な環境でした。このままいれば安定したキャリアを築けるだろうな、と。 でも、その居心地の良さが、逆に自分にとって落ち着かなくなっていた。言うなれば、恵まれた実家でのびのび育つ感覚があったので、なんかいまの自分の肌には合わないかもしれないなと。 それに、歳をとって失う一番のリスクは「体力」だな、とも感じていました。若いうちに独立して後悔した話って聞かないけど、40代、50代になって「もっと早く独立すればよかった」って話はよく聞くな、と。なら早い方がいいだろう、と。 ちょうどその頃、AIコーディングの波が来て、「非エンジニアの自分でもプロダクトをつくれるかも?」と感じたのも大きな追い風になりました。そこからプログラミングスクール「ジーズアカデミー」の門を叩き、起業のイメージが一気に具体的になっていった感じです。

――編集者として一番最初の仕事のエピソードを覚えていますか?

はい、覚えてます。メルカリのイベントのレポート記事を書きました。エンジニアに関する記事でしたが、当時はエンジニアリングの知識がほぼ皆無だったので、わからない専門用語をなんとか解釈しながら必死でまとめました。 初めて出した原稿は、編集長から真っ赤な赤字を入れられて、「おお…これが編集かあ…」と思った記憶があります(笑)。でも、初めて自分の記事がメディアに載った時は嬉しかったですね。

「今やりたいか」を基準にして進む

――スキルのレベルアップや、モチベーションの維持はどんなふうに行っていますか?

うーん、あまり意識しないタイプですが…何でしょうね。正直、自分から能動的に「学ぼう!」というよりは、必要に駆られて「ああ、やらなきゃなあ」という感じで技術と向き合ってきた気がします。 あとは、とにかく色々な先輩の「型」を見て、良いなと思った部分を取り入れて、自分好みに組み合わせる、みたいなことはやっていたかもです。 モチベーションに波はないタイプなんですが、サッカーをやっていた時に感じていたことがあって。1年の中で、やる気がある時期とない時期が、だいたい2回ずつ来る感覚があったんです。だから、「あ、いまはやる気がある時期だな」とか「いまはやる気ないターンだな」とか、自分の波をフラットに捉えるようにはしていますね。

――ここまでくるのにたくさんの挑戦やリスクを取られてきたと思います。そのような難しい局面で、どのように判断や意思決定をされてきたのですか?

判断基準は「今やりたいかどうか」。そして、「それを今逃したら、未来にまたチャンスはあるか?」ですね。未来にもチャンスがあるなら、今選ばなくてもいいかもしれない。でも、「未来の自分はたぶんやらないな」と思うなら、今選んじゃう。 基本、そこまで深く考えず、「今やりたいこと」をやるタイプです。未来のことはわからないし、その時の自分がどう考えてるかなんて、なおさらわからないので。

――これがないと活動ができない!という必需アイテムをシェアしてください。

MacBookとiPhoneですね。録音、企画、取材、執筆、コーディング、コミュニケーションまで、ほぼ全ての仕事がこれで完結します。 あとは…イヤホンとか? 基本、ポッドキャストとか聞きながら仕事してます。ポッドキャストは幅広く聞いていますが、三宅香帆さんのオタク口調な早口がクセになる「視点倉庫」や、高木新平さんの一人の人の思想への深堀り力がすごい「インサイドビジョン」などはよく聞いています(ほぼ頭には入ってないのですが)。

「向いていないかも」を乗り越え、つくる側へ踏み出した

――ポッドキャストの音声を聞きながら、書く仕事ができるのはすごいですね。 次の質問です。編集者の仕事をしていて、最も幸せだと感じる瞬間はどんな時ですか?

取材で面白い話を聞けた時、思い通りの原稿ができた時、読者からの反響があった時…色々ありますが、僕は「予想外の話が聞けた時」と「構成をパズルのように組み合わせる時」ですかね。 自分が当初描いていた企画や方向性から、インタビュー中に話が脱線して、予想外の展開になると「うわ、面白い!」って思います。あんまり自分の想像の枠に収まっちゃうと、面白くないんですよね。 それに、記事の編集って、文章の順番を入れ替えるだけで全く違ったストーリーになるんです。その順番をパズルのように入れ替えながら、つかみから読後感まで、ビシッとハマった時は最高に楽しいです。

――反対に、「やめたい」と感じるほど辛かった瞬間はありましたか?

編集者1年目は、もう何度「自分、向いてないかも」「やめようかな」と思ったことか。自分が考えた企画が全く面白くないし、通らないしで、「ああ、向いてないわ…」と。実は当時、『NewsPicks』の編集職以外に、スタートアップの事業開発ポジションでも内定をもらっていたんです。だから、「もう一回だけ『NewsPicks』で編集をやってみて、それでもダメだったら諦めよう」と、改めてチャレンジしました。 結果、そこで目の当たりにしたのは、本当に多様な「編集者」たちの姿でした。企画がとにかく面白い人や、雑誌風なエディトリアルを好む人。抽象的な概念から考えるのが好きな人もいれば、プレゼン力がズバ抜けている人もいる。他にも、とにかくインタビューが好きなタイプや、キャプションのような細部の言葉選びに命をかけている人など…。 それを見て、「あ、編集者像ってひとつじゃないんだ」と気づかされたんです。「文章がうまい」だけが正解じゃなくて、それぞれの強みがあっていいんだと。 「なら、この先輩たちの『良いな』と思う部分を組み合わせていけば、自分なりの編集者の道が開けるんじゃないか?」そう思えてからは、変に型にはまろうとせず、自分のスタイルを模索できるようになりました。あの気づきは、僕にとって大きかったですね。

――なるほど、チャレンジをしたからこそ、新しい形に気づいたんですね。キャリアを築く上で、どんな不安や葛藤がありましたか?「自分で事業を作る」ということは、なぜそれほどまでにFumiyaさんを魅了したのでしょうか?

一番大きな葛藤は、やっぱり『NewsPicks』を辞める決断をした時ですね。環境も仲間も最高で、正直、辞める合理的な理由は見当たりませんでした。 それでも踏み出したのは、編集者として仕事をする中で感じていた「違和感」が無視できなくなったからです。自分自身はまだ何も生み出していないのに、リスクを背負っている起業家に「ビジネスの勝ち筋」や「戦略」を聞いたり、ある意味で“高みの見物”のように評価したりする立場にいる。そこにずっとモヤモヤしていました。 「応援する側」や「俯瞰する側」じゃなくて、泥臭くてもいいから「自分でやってみる側」に行かないと、本当の意味で深くは潜れないなと。 それに、人生のリスクを考えた時、今後一番のリスクになるのは「スキル」や「お金」の不足じゃなくて、「体力の低下」だと思ったんです。体力があるうちに飛び込んだ方が、後悔する確率は圧倒的に低いだろうと。 ……まあ、いろいろもっともらしい理屈を並べましたけど、最終的には「人の言うことを聞くのが嫌だ」という性格が一番の理由かもしれません(笑)。

編集とは、価値をつなぐ橋渡し

――Fumiyaさんにとって、編集者の仕事にはどんな意味が?

まだまだキャリアの浅い僕なんかが言うのもアレですが…自分にとって編集者とは、世の中に埋もれている「才能」を発掘して、それを“翻訳”し、伝えていく仕事だと思っています。それは人の才能かもしれないし、新しい技術の可能性かもしれない。その価値を、一番伝わる形に再構築して、必要としている人に届ける「橋渡し役」みたいな存在ですね。

――umuにもすごく通じる部分がありますね。「編集」というものは、Fumiyaさんの人生にどんな影響を与えたのでしょうか?

物事を俯瞰的かつ多様な視点で見られるようになった、と思います。ずっとサッカー中心に生きてきた僕が、編集者になったことで、エンジニア、経営者、研究者といった、これまで全く接点のなかった分野のプロフェッショナルたちと出会えました。彼らの視点を通して世界を見ることで、物事を多角的・構造的に捉える力が身についた。 この「情報を整理し、本質を抽出し、再構築する」という“編集的思考”は、今まさに取り組んでいるプロダクト開発や事業づくりにもダイレクトに活きていますね。

憧れから居場所へ

――東京はFumiyaさんにとって、どんな場所ですか?

僕は東京が大好きです。茨城の田舎で育ったんで、とにかく早く東京に出たかった。高校生の時、オープンキャンパスの帰りに初めて竹下通りを歩いた時のワクワク感は、今でも覚えています。実際、東京で色々な人に出会えたし、色々な経験もさせてもらいました。実は今年から、人生で一度住んでみたかった鎌倉に住んでいますが、またタイミングを見て東京には戻ると思います。

未来を決めず、いま面白い方へと向かう

――想像できる「一番遠い未来のご自身の姿」はなんですか?

事業で成功するか、田舎でのんびり暮らすか、そのどっちかですかね。あ、海外生活もしてみたいとか思っています。少年団とかのサッカー監督なんかもやってみたい。 ただ、あんまり未来のことは考えず、「今、面白い」と思うものを選ぶタイプなので、正直なんとも言えないかもしれないです(笑)。 ただ、あまり未来のことは考えずに、今どうしたいかを大切にしています。今やって見てそれが良くても悪くても、一歩ずつ進んでいることになるので。

――最後の質問です。過去の自分、このキャリアを目指して悩んでいた頃の自分に伝えたいことはありますか?

あまり自分自身何かを目指してキャリアを歩むタイプではなかったのですが、とにかく目の前の興味に飛び込むことを繰り返すことで、面白い体験と出会えるのではないでしょうか。

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